アスリートストーリー

vol.3 アテネの表彰台で誓った金メダル ~競泳・秋山里奈~

「今までやってきたことは何だったんだろう」――今から4年前の2007年9月、秋山里奈の心にポカリと穴が開いた。
04年アテネパラリンピック、100メートル背泳ぎ(視覚障害)で銀メダルを獲得した秋山は、北京パラリンピックでの金メダルを目指していた。北京まで約1年と迫った07年8月には、ジャパンパラリンピックで世界新記録を樹立する。秋山は一歩一歩、着実に、金メダルへと近づいていた。

ところがその半月後、国際パラリンピック委員会(IPC)からの通達に秋山は愕然とした。彼女のクラス(S11)の実施種目から背泳ぎが廃止されたのだ。全身の力が抜け、茫然とするしかなかった。
「メダルの価値を高めるために、少人数のクラスの種目が廃止されたというのが理由だと聞きました。でも当時、私のクラスでは世界でパラリンピックに出場する選手は13、14人ほどいました。にもかかわらず、8人以下で決勝しか行なわれないクラスの種目でも廃止になっていなかったり……。正直、納得できませんでした。コーチとずっと金メダルを目指して頑張っていたので、ショックは大きかったですね」

だが、悲しみに浸っている時間はなかった。選考会が4ヵ月後に迫っていたのだ。背泳ぎがダメなら、他の種目に替えるしかない。だが、背泳ぎの次に得意の平泳ぎも廃止となっており、残された道は彼女が最も苦手としていた自由形だけだった。
「正直、自由形では代表に選ばれるかどうかもわからなかったですよ」とは、秋山が高校生の頃から彼女の泳ぎを見てきた遠藤基コーチだ。しかも、当時は高速水着の登場により、世界のスイマーたちのタイムは大幅に伸びていたというから、秋山にとっては非常に厳しい状況であったことは想像に難くない。表彰台どころか、パラリンピックの舞台に立てるかどうかさえもわからなかった。だが、秋山に迷いはなかった。4年前に味わった悔しさが彼女の背中を押していた。

嬉しい悔しい銀メダル

04年9月、高校2年の秋山はアテネの地にいた。初めてのパラリンピック出場だった。彼女がパラリンピックを目指し始めたのは小学6年の時。当時、既に世界の舞台で活躍していた河合純一の存在を知ったことがきっかけだった。
「私と同じ全盲の人で、水泳選手として活躍している人がいることを知って、もしかしたら自分にもできるかもしれないと思ったんです」
3歳からスイミングクラブに通っていた秋山が、頭角を現すのにそう時間はかからなかった。5年後、秋山は見事、日本代表の座をつかみ、パラリンピック出場を果たした。

当時、ほとんど無名だった秋山にプレッシャーは全くなかった。開会式では地響きのように全身に伝わってくる大歓声に、自然と顔がほころび、胸が高鳴った。本番でも秋山は委縮することなく、レースを楽しんだ。予選は体力温存のために、歓声を楽しむほど抑えた余裕の泳ぎで5位通過。順当に決勝進出を決めた。

数時間後、いよいよ決勝が始まった。ファイナリストへの称賛の拍手は、秋山の想像以上だった。
「入場後、一人一人の名前をコールされるんですけど、もうすごい歓声と拍手なんです。それまであんな雰囲気の中で泳いだことはありませんでした。『あぁ、これがパラリンピックなんだ』と改めて思いましたね」

決勝はスタートから全力で泳いだ。作戦など何もない。とにかく、体力の続く限り、必死に泳いだ。結果は2位。しかも自己記録を約2秒も上回る好タイムだった。
「目標は自己ベスト更新でしたから、まさか銀メダルをとれるなんて思ってもいませんでした。もう、ただただ嬉しかったですね」
表彰台で首にかけてもらった銀メダルは、ズシリと重かった。それまでのさまざまな思いが全てつまっているように秋山には感じられた。

だが、優勝した中国人選手を称える中国国歌を耳にした瞬間、喜びは一気に吹き飛んだ。 「あぁ、自分は一番じゃないんだ、と思ったら、なんだか悔しくなっちゃったんです。その時、『4年後の北京では絶対に自分が真ん中に立って、君が代を聞きたい』と思いました」
それまで経験したことのない熱いものがこみあげてくるのを、秋山はじっと中国国歌を聞きながら感じていた。

価値ある北京での8位

「アテネの表彰台で誓った北京での金メダルが、どうしても諦められませんでした。もう一度、パラリンピックの舞台に立って挑戦したかった。だから、自由形で頑張ってみようと。それに自由形という選択肢が残されているのに、みすみす夢を諦めるなんてできなかった。自由形でも世界に通用するところを見せたいと思ったんです」

背泳ぎから自由形へ――。フォームはもちろん、上向きと下向きとでは水のとらえ方が全く異なるため、ほとんどゼロからのスタートだった。周りからは無謀ともいえる挑戦と映っていたかもしれない。だが、秋山も遠藤コーチも決して諦めなかった。半年間、ひたすら北京を目指してトレーニングが行なわれた。その結果、翌年の08年3月に見事、北京への切符をつかみとった。

そして2度目のパラリンピックの結果は、50メートル自由形で8位。表彰台には遠く及ばなかった。しかし、レース後の秋山には悔しさも悲しさもなかった。あるのはただ、喜びと達成感だった。
「目標としていた決勝に残ることができましたし、自己ベストを約2秒も更新することができたので、素直に嬉しかったですね。それに遠藤コーチと1年という限られた時間の中で必死にやってきたので、達成感がありました。銀メダルをとったアテネよりも、清々しい気持ちでしたね」

あれから3年の月日が経った。今、秋山は再び背泳ぎでの金メダルを目指している。これまでと違うのは、堂々と金メダル宣言をしていることだ。
「本当は怖いという気持ちの方が強いんです。でも、人前で口に出すことで『言ったからには、やらなくちゃ』と自分にプレッシャーをかけられる。それが大きな力になるのではないかと思って……」
数多くの悔しさを味わい、幾多の困難を乗り越えてきた。だからだろう。彼女には自らを追い込んでも、それをはねのけるだけの力がある。金メダル宣言は、その自信の表れなのだ。

―― 今、ロンドンで金メダルをとれる自信はどれくらい?
「うぅん、そうですねぇ……」
しばらく悩んだ末に、秋山は意を決したかのようにこう言った。
「自分には絶対にできると思っているので、100%です」
3度目の正直――アテネ、北京で果たせなかった夢を今度こそ……。1年後、表彰台の真ん中で君が代を聞く秋山の姿が見られる日が待ち遠しい。

(文・斎藤寿子)

協力 チャンピオンスイムクラブ いせはら校