アスリートストーリー

vol.13 完全復活への軌跡 ~車いすテニス・国枝慎吾~

北京パラリンピックで悲願の金メダルを獲得した2日後には、既にロンドンへのスタートを切っていた。

2008年9月15日、北京パラリンピック・テニス男子シングルス決勝戦、国枝慎吾は前回覇者のロビン・アマラーン(オランダ)を6-3、6-0とストレートで破り、悲願の金メダルに輝いた。試合後、国枝は17歳から師事している丸山弘道コーチと抱き合って泣き崩れた。アテネからの4年間の思いが走馬灯のようによみがえってきていたのだろう。2人の間に言葉は一切、要らなかった。だが、2人はその喜びに長く浸かることはなかった。決勝からわずか2日後には、国枝は次なる目標を見据えていたのだ。プロへの転向、そして4年後のロンドンへ――。さらなる進化を求めて、国枝慎吾は早くも新たなスタートを切っていた。

09年4月、国枝は記者会見を開き、プロ宣言を行なった。安住の地を捨て、茨の道を選んだのである。それは自らのチャレンジとともに、障害をもつ子どもたちに夢を与えたいという思いからだった。
プロは結果が全てである。国枝はプロ転向後、全仏、全英、全米と立て続けにグランドスラムを制覇するなど結果を残し、06年10月から続いていた世界ランキング1位の座をキープした。プロとして、順風満帆かに思われた。

だが、実はこの年の秋頃から、彼の身体には異変が起きていた。右ヒジに痛みが出始めたのだ。9月の全米オープンではダブルスでテニス人生初の棄権をしたほどの痛みだった。それからの約2年間は痛みが出たり、出なかったり……。自らをだまし続けながらプレーを続けていた。

その右ヒジに限界が訪れたのは昨年9月のことだ。全米オープンを1週間後に控えた大会で痛みがひどくなり、国枝は決勝にコマを進めながら苦渋の決断で棄権をした。1週間、でき得る限りの治療を行ない、練習もほとんどせずにヒジを休めることに専念したが、一向によくはならなかった。それでも国枝は気力で戦い続け、見事優勝し大会4連覇を果たした。だが、それは長く苦しい日々の始まりでもあった。

今年2月14日、国枝は右ヒジの手術を行なった。昨年の全米オープン以降、全ての大会をキャンセルし、あらゆる治療を施したものの、ヒジの具合は良くはならなかった。当初はメスを入れない方向で考えていたが、年が明けても状況が好転しなかったため、国枝は手術を決心した。それはロンドンパラリンピックを逆算してのギリギリの選択だった。とはいえ、手術をしたからといって、必ず良くなるという保証はどこにもない。国枝はすべてを覚悟の上で、可能性に賭けたのである。当日緊張した面持ちで手術室に入ると、聞き慣れた音楽が聞こえてきた。Mr.Childrenの「Tomorrow never knows」。国枝が試合の前に必ず聴く曲である。病院側の粋な計らいだった。国枝は自らの勝負ソングを聴きながら、静かに目を閉じた――。

“納得”から“悔しさ”へ

「おかえり!」
「ただいま!」
4月2日、吉田記念テニス研修センターには国枝と丸山の笑顔があった。手術後、約1カ月半のリハビリを経て、国枝がコートに帰ってきたのだ。ボールはまだ通常のものではなく、軟らかいスポンジ製のものだったが、それでも全米オープン以来となるフルコートでの打ち合いに、国枝も丸山も喜びをかみしめていた。
「ようやく、ここまできた……」
そんな思いがボールを通じて、2人の間を行き交っていたことだろう。

復帰戦は5月のジャパンオープンだった。パラリンピック前とあって、例年以上に世界から強豪たちが集まっていた。そんな中、国枝はベスト4進出を果たした。準々決勝では世界トッププレーヤーの1人、ミカエル・ジェレミアス(フランス)に6-0、6-2で快勝。とても3週間前にようやく普通のテニスボールを使っての練習をし始めたばかりとは思えないプレーだった。準決勝では現在世界ランキング1位のステファン・ウデ(フランス)にストレート負けを喫したが、国枝はそれほど悔しさを感じてはいなかった。

今年5月のジャパンオープン、国枝は復活への一歩を踏み出した。

「とにかく試合に出て、少しでも試合勘を取り戻したいという気持ちでしたので、ジャパンオープンでは結果は全く求めていませんでした。逆に準々決勝では今年調子のいいジェレミアスに勝ちましたから、いい手応えを感じていました。準決勝でウデに負けた時も、『3週間の練習でここまでこれたのだから、OK』と、すごくポジティブな気持ちだったんです」

ジャパンオープン後、韓国でのワールドチームカップを経て、国枝は全仏オープンに出場するため、フランス・ローランギャロスへと向かった。そこでの優勝が完全復活の狼煙となるはずだった。しかし、決勝で国枝の前に立ちはだかったのは、またしてもウデだった。セットカウント1-1で迎えたファイナルセット、タイブレークにまでもつれたが、国枝は5-1でマッチポイントを迎えた。チャンスは3回。国枝の優勝はほとんど確実と思われた。

ところが、なんとそこから逆転されたのだ。衝撃的な結末に、国枝は悔しさを覚えた。それでも試合後に握手をした時には、手応えの方が大きかったという。それは、ジャパンオープン、チームカップと2大会連続でストレート負けを喫していた相手にマッチポイントを握るまでに追い込んだことへのものだった。だが、ロッカールームに入るなり、「あと1ポイントで勝てたのに……」という悔しさが再び国枝の心を支配した。その悔しさは翌日になっても、消えることはなかった。それは国枝が次なるステップへと踏み出した証拠でもあった。

彼のブログにはこう書かれてある。
<一夜明けて、悔しさはそのまま。帰ったら練習しなくては。この思考は、私自身がテニスコートに完全に戻ってきた証でもあります。もう「復帰戦」は終わりにします。>
「復帰戦は終わり」とは――。
「ジャパンオープンでは負けても、悔しいという気持ちよりも納得の方が大きかったんです。でも、それが全仏でははっきりと『悔しい』という気持ちが出てきた。これはもう、ヒジを気にしていないという証拠。勝ちにこだわる普段の自分に戻ったということです」
国枝は、いよいよロンドンに向けて戦闘モードに入ったのである。

世界に示した国枝の存在

全仏後に臨んだフレンチオープンでは準決勝でまたもウデと対戦。今度はファイナルセット、タイブレーク4-6でリードされてからの逆転勝ち。約1カ月前の全仏とはまるで逆の展開でこれまで3度、立ちはだかった壁をようやく乗り越えた。そして、決勝ではストレート勝ちを収め、昨年9月の全米オープン以来、復帰後初となる優勝を果たした。

さらに国枝は、スイスオープン、全英オープンをも制覇し、3大会連続優勝という最高のかたちでロンドンパラリンピック前の大会を締めた。特に大きな1勝となったのが最終戦となった全英オープンでの準々決勝だ。相手はジャパンオープンでウデを破った18歳の新鋭、グスタボ・フェルナンデス(アルゼンチン)。このフェルナンデス、実は4年前に丸山がアルゼンチンに講師として招かれ、レッスンした時から注目していた選手だった。
「私はこれまで若手が出てきても、誰ひとりとして怖さを感じたことはありませんでした。ところが、フェルナンデスだけは『この選手は必ずくる』と怖さを感じていたんです。というのも、彼は慎吾と同じ強い目をしていた。ジャパンオープンで優勝した時には、『ついにきたな……』と思いましたね」

国枝もまた、ジャパンオープン以来、フェルナンデスをマークしていた。
「ジャパンオープンは結果を求めていなかったとはいえ、僕自身の7連覇がかかっていましたし、何よりホームでの大会。そこで優勝されたわけですから、危機感もありましたし、少しプライドも傷ついたところもありました。だから、ロンドンの前に一度、対戦したいなと思っていました」

そうして迎えたブリティッシュオープン準々決勝でのフェルナンデス戦、結果は6-0、6-0と国枝の完勝だった。これには、丸山も驚きを隠せなかったようだ。
「いくら実力に差があったとしても、2セットやれば、1ゲームくらいは落とすものなんです。それをジャパンオープンの優勝で乗っていたグスタボに1ゲームもやらなかったわけですからね。慎吾自身も自信をつけたでしょうし、グスタボだけでなく、世界に対して“国枝あり”を見せつけられたと思います」

ロンドンでの戦いは9月1日にスタートする。パラリンピックは3度目の国枝だが、緊張の度合いも感じる重みも、アテネ、北京と全く変わらないという。
「どんなにスコア的にはリードしていても、1ポイント取るのに必死ですし、逆に1ポイント取られると精神的にズシンとくる。4年間かけている分、パラリンピックの1ポイントって、本当に重いんです。それだけに今回も最後まで緊張とプレッシャーを抱えながらの日々が続くのは覚悟しています」

北京に続いてのパラリンピック連覇となれば、車いすテニスでは史上初の快挙だ。それだけにプレッシャーの大きさは計り知れない。だが、国枝はそれを乗り越えた先にあるモノが何かを既に知っている。
「プレッシャーが大きければ大きいほど、それを乗り越えて目標を達成した自分への感動も大きいんです。そして、それがサポートしてきてくれた周囲の方々への一番の恩返しにもつながるはずです。ですから、必ず成し遂げます!」
決勝戦が行なわれる9月8日、「国枝慎吾」の名が再びパラリンピックの歴史に刻まれる――。

(文・斎藤寿子、写真・竹見脩吾)

協力 吉田記念テニス研修センター、NEC車いすテニスツアー・ジャパンオープン2012