アスリートストーリー

vol.6 現役続行を決意させた北京での“1本” ~ハイジャンパー鈴木徹~

「ロンドンを目指そう……」
試合を終えたハイジャンパー鈴木徹は、自らの気持ちが徐々に変化していくのを感じながら、インタビューに答えていた。2008年9月14日、北京パラリンピックに出場した鈴木は、競技人生の集大成としてこの大会に臨んでいた。結果は1メートル93センチで5位入賞。記録、成績ともにシドニー、アテネ以上の数字を残した。しかし、そのことが現役続行へ気持ちを動かした要因ではない。降ろしつつあった幕を再び上げたのは、鈴木自身に成長を感じさせたある1本のジャンプだった。

当時の鈴木は決して万全の体調ではなかった。前年に痛めた左ヒザが完治していなかったのだ。そのため、しっかりとしたトレーニングを積むことができないまま、北京へと向かわざるを得なかった。現地でも左ヒザの痛みがひどくならないことを願いながら、調整程度の練習しかすることができなかった。
「なんとか本番までもって欲しい……」
不安がなかったと言ったらウソになるだろう。だが、開会式で旗手を務め、日本代表団の先頭に立って堂々と日の丸を掲げた鈴木が、下を向くわけにはいかなかった。スタンドには家族も詰めかけていた。1歳(当時)の息子に堂々とした姿を見せたいという思いが、彼の支えの一つとなっていたことは想像に難くない。左ヒザへの不安を抱えながら、鈴木は意を決して会場へと向かった。

しかし、その不安はフィールドに立った瞬間、一気に吹き飛んだ。“鳥の巣”と呼ばれる北京国家体育場はぎっしりと観客で埋まっていた。空席が目立ったシドニー、アテネとは比べものにならないほどの盛況ぶりに、鈴木は胸の高鳴りを抑えることができなかった。さらに、鈴木を興奮させたのが、スタンドで起こったウェーブだった。会場がその波にのみこまれるような大迫力を目にした鈴木の体からは、大量のアドレナリンが放出されていた。
「あのウェーブにはしびれましたね。もう、テンションが上がって、ヒザのことを気にしている場合ではないと思いました。とにかく目の前のバーを一つひとつクリアしていこうと。あの雰囲気があったからこそ、うまく試合に入っていくことができました」

鈴木にとって最大のヤマ場となったのは、1メートル90センチの3本目だった。1、2本目を失敗した鈴木は、崖っぷちに立たされていた。これに失敗すれば、3度目のパラリンピックが終了する。だが、鈴木はプレッシャーというよりも、ほどよい緊張感に包まれていた。
「たとえ失敗したとしても、自分が納得できるジャンプをしよう」
果たして鈴木は、それまで失敗したのがウソであるかのような、見事なジャンプで軽々とクリアしてみせた。それはパラリンピックの舞台で自らが“ベスト”と言えるほどのジャンプだった。
「すごく気持ちがよかったですね。シドニーもアテネも不甲斐なさしか残らなかったのですが、ようやく世界最高峰の舞台で自分のジャンプを表現できた瞬間でした。それに、この1本は自分にとって成長した証でもありました。追い込まれた状態で、気持ちを切り替えることができた。シドニー、アテネでは決してできなかったことです。この1本が跳べたからこそ、『ロンドンではもっといいジャンプを見せたい』と思えたんです」

波に乗った鈴木は、1メートル93センチを1本目で成功させた。1メートル96センチは3本とも失敗に終わるが、後味は決して悪くはなかった。そして、さらに鈴木を高揚させたのが、各選手が囲み取材を受けるミックスゾーンでのメディアの数だった。シドニー、アテネとは比べものにならないほど、多くの報道陣が詰めかけていたのだ。嬉しかったのは、報道陣たちからかけられた言葉だった。
「鈴木さん、本当にいいジャンプを見せてもらいました!」
仕事というよりも、一人の人間として、自分のジャンプに感動してくれている。鈴木にはそう思えた。

さらにNHKでは鈴木の試合の様子が、ライブ映像で流されていた。オリンピックとは異なり、日本では通常、パラリンピックは結果のみがニュースで伝えられることが多い。ましてや生中継など、皆無に等しいというのが現状だ。だが、北京では鈴木のジャンプがライブで日本のお茶の間に届けられていたのだ。試合後にそのことを知った鈴木は驚きと喜びを感じながら、集大成と位置づけていた北京の舞台は、自分にとって通過点のように思えてきた。
「メダリストでもない自分が、これだけ注目され、期待されていたことに正直ビックリしました。本当に嬉しかったですね。こうした周囲の反響が、ロンドンへの気持ちを高めてくれました」
北京での“納得感”とロンドンへの“挑戦心”――。鈴木は清々しい気持ちで“鳥の巣”を後にした。

2メートルジャンパー復活へののろし

あれから約3年半の月日が流れた。現在、鈴木はプーマジャパンに所属し、競技活動を行なっている。10年からは鈴木がハンドボール部の監督を務める駿河台大学の陸上競技場やトレーニング室を使っている。北京の頃に比べると、環境は格段に良くなった。だが、肝心のジャンプは停滞したままにあった。原因は治り切らない左ヒザだった。
「ハイジャンパーにはよくある使い過ぎからくる“ジャンパーヒザ”で、靭帯が損傷してしまったんです。しかも、完全に切れていたら手術ができるんですけど、少し損傷しているだけなので、手術することもできない。少し休むとよくなって、跳び始めると、また痛くなる。一番性質が悪い状態なんです」
階段の昇り降りはもちろん、ひどい時にはあぐらをかくこともできないほど、激しい痛みが襲った。鍼治療など、考え得ることはしてみたものの、一向によくはならなかった。鈴木は暗いトンネルをさまよい続けていた。

そんな彼に一筋の光が射したのは、昨年のことだった。シドニー、アテネ、北京と3大会連続で五輪出場、世界選手権では2度、銅メダルを獲得しているハードラー為末大が、新しい治療法によって長年悩まされてきたケガを治したという情報を得たのだ。「多血小板血漿療法」という先進治療だった。それを知った鈴木は、藁をもつかむ思いで、その治療を行なっている名古屋のクリニックに連絡をすると、医師からすぐに快諾の返事が来た。鈴木は5、7、9月の3回、その治療を行なった。1回目よりも2回目、2回目よりも3回目というふうに、鈴木は自分のヒザが回復していくのを感じた。

そして昨年12月、鈴木は約10カ月ぶりにIWAS世界大会で実戦復帰を果たした。結果は1メートル85。2メートルジャンパーの彼にとっては満足のいくものではなかったが、それでもほとんど練習をしていないことを考えれば、十分に手応えは感じられた。
「5月に予定されている日本選手権では2メートル台の戦いができるようなジャンプをしたいですね。そうでなければ、ロンドンでは勝負することはできないと思うんです。最低でも自己ベストの2メートルは跳ぶつもりです」

最大のポイントは踏み切りだ。左ヒザを故障して以降、鈴木は思い切って踏み切ることができずにいた。無意識に左ヒザをカバーしようと、完全に踏み切れずに置きにいってしまうのだ。踏み切りで攻めることができないのは、ハイジャンパーにとっては致命的と言ってもいい。自己ベストの2メートルを記録した時にはほぼ完璧だった攻めの踏み切りは、昨年12月の復帰戦では1度きりしかできなかったという。しかし、その1度が鈴木にとっては大きな一歩となったに違いない。助走から踏み切り、ジャンプへ――。一連の動作が一本の美しいラインとなった時、鈴木のビッグジャンプが生まれるはずだ。4年ぶりに左ヒザの痛みから解放された鈴木は今、ようやくロンドンへのスタートラインに立った。

(文・斎藤寿子)

協力 駿河台大学