アスリートストーリー

vol.12 自らの可能性への挑戦 ~視覚障害者柔道・廣瀬誠~

「オレの実力じゃ、この階級では無理だ……」
2008年、北京パラリンピック。初出場だったアテネパラリンピックで銀メダルを獲得した廣瀬誠には、金メダルへの期待が寄せられていた。だが、結果は7位。入賞ではあったものの、廣瀬にとっては世界との差を感じた“惨敗”だった。廣瀬の頭に「引退」の二文字が浮かんでいた――。

とはいえ、やはり廣瀬は柔道が好きだった。畳の上で汗をかくことが、何よりも快感だった。廣瀬は北京後もそれまで通り、道場に通い続けていた。
「これからは趣味として続けていこう」
そう思っていた。だが、日が経つにつれて、廣瀬は自分の素直な気持ちに気が付いた。「自分よりも強い人とやると、投げられそうになった時のスリル感や、投げた時の喜び、逆に投げられた時の悔しさというものが湧いてくるんです。そういう気持ちがあるということは、自分の中で強くなりたいとか、相手に勝ちたいという気持ちがあるんだな、と気が付いたんです」

茨の道とわかりつつも、階級を上げてロンドンに挑むことを決意した廣瀬。

廣瀬は再び勝負の世界へと戻ることを決意した。しかし、同じ60キロ級では、やはり無理があると感じていた。その理由のひとつには、過酷な減量があった。
「試合前になると、約3キロの減量をしなければならなかったのですが、いつも残り500グラムがなかなか落ちなかったんです」。そこで廣瀬は、一つ上の階級、66キロ級でロンドンを目指すことにした。
「60キロ級の時は、減量しなければならなかったので、ウエイトトレーニングもセーブせざるを得ませんでした。でも、66キロ級だったら、気にせずに思い切り体を鍛えることができる。自分の最大級のコンディションで、どれだけ通用するのか、挑戦してみたいと思ったんです」

しかし、66キロ級には日本視覚障害者柔道における絶対的エースの存在があった。アトランタ、シドニー、アテネと3連覇を果たし、北京では惜しくも決勝で敗れたが、それでも4大会連続メダル獲得という偉業を成し遂げてきた藤本聰である。その藤本を破らなければ、パラリンピックへの道がないことはわかりきっていた。だが、廣瀬は茨の道を選んだ。廣瀬にとって、藤本は偉大な柔道家であり、尊敬すべき先輩である。だからこそ、自分がどれだけ通用するのか、挑戦したかったのだ。

「北京までは日本代表の仲間として、藤本さんは66キロ級で、僕は60キロ級でパラリンピックを目指すというふうに考えていました。でも北京後、階級を上げようか考えた時に、藤本さんにぶつかってみたいと思ったんです」
高みへの挑戦。これぞ、まさにアスリート魂である。

がっぷり四つの戦い

藤本との初対決は09年の全日本選手権。勝ったのは廣瀬だった。「この試合はゴールデンスコア(延長戦)でも決着がつけられなかったうえでの判定勝ち。ですから、勝ち切った感じは全くしませんでした。手応えというよりも、課題の多さを痛感した試合になりました」

藤本は減量していることもあり、後半になるとスタミナが落ちる傾向にある。一方、階級を上げ、減量を必要としない廣瀬には十分なスタミナがあった。そこで、廣瀬は後半が勝負になると考えていた。実際、試合が進むにつれて、藤本の動きが鈍くなっていることを感じた廣瀬は、後半に技の応酬に出た。だが、結局は決定打に欠き、ポイントを奪うことができなかったのだ。

翌10年の全日本選手権、2度目の対戦が実現した。結果は藤本の一本勝ち。1年前の屈辱を晴らすかたちとなった。体重が62キロにまで落ち、最悪のコンディションだった廣瀬には、最大の強みであるスタミナはなかった。だが、それ以上に気持ちの部分で藤本に負けていたという。
「藤本さんにとっては、絶対に負けられない試合でしたから、気迫がみなぎっていました。もう、その部分で既に僕は負けていたと思います」

これで対戦成績は1勝1敗。数字の上では五分だが、廣瀬は藤本に並んだとはとても思えなかった。ロンドンまであと2年。廣瀬にはやるべきことが見えていた。筋力強化、特にディフェンス力を高めるための下半身強化だった。

昨年の全日本選手権に藤本の姿はなかった。半年後に迫ったロンドンの選考会に備えて、出場を見送ったのだ。それほど藤本にとって、廣瀬は驚異的な存在となっていたのだろう。そうして迎えた今年5月27日、ロンドンパラリンピック日本代表候補選手選考大会が東京・講道館で行なわれた。前日から廣瀬の緊張の度合いはピークに達していた。その緊張をほぐしてくれたのが、日ごろ道場で指導してくれている先生だった。いつも道場でしているような冗談まじりの何気ない会話が、廣瀬の緊張を和らげていった。

勝ってなお感じた藤本の大きさ

藤本への警戒心が高い集中力を生んだ。

「はじめ!」
実力者同士の対戦に、観客の目が釘付けとなった。一進一退の攻防戦が繰り広げられる中、先に仕掛けたのは廣瀬だった。開始から約1分半、巴投げで技ありを取った。そして、残り5秒を切ったところで、廣瀬が最後の力を振り絞り、すくい投げで再び技あり。
「一本!」
電光掲示板の時計は、残り1秒となっていた。

守りに入ることなく、最後まで攻めの姿勢を貫いたのは、王者への恐怖感だったという。
「いつも通り、後半が勝負と思っていました。前半で技ありを取った巴投げは、正直、自分でも予想外でした。かっこよく言ってしまえば、体が勝手に動いたんです。しかし、先行したとはいえ、とにかく最後まで気を抜くことはできませんでした。藤本さんは精神的にタフな方なので、何が起きるかわからないという怖さがあったんです」

そして、勝因を次のように語った。
「藤本さんは当然、僕に勝ってパラリンピックに行くと思っていたでしょうから、おそらくパラリンピックで勝つための対策をしてきたと思うんです。でも、僕はこの2年間、藤本さんへの対策をずっとやってきた。その差が少し出たのかもしれません」
1年半前、完敗を喫したあの日、浮き彫りとなった課題の克服に取り組んできたことを出し切ったという達成感を廣瀬は感じていた。

試合後、「ありがとうございました」と何度も藤本に頭を下げる廣瀬の姿があった。
「僕が高校で柔道を始めた時には、もう既に藤本さんは国際大会でメダルを獲っていて、本当に大きな存在でした。そんな人とパラリンピックの選考会という重要な試合で対戦できたことが、僕にとっては大きな意味を持っていたんです。でも、いざ勝ってしまって、藤本さんに何て言ったらいいのか迷っていました。そしたら藤本さんの方から寄ってきてくれて、『オマエ、オレの分もメダルを獲らなかったら許さんぞ』って笑いながら言ってくれたんです。もし、自分が負けていたら、そんなふうに素直に言葉をかけられるかと言ったら、自信はないですね。やっぱり、藤本さんは大きい人だなと改めて思いました。それで自然と『ありがとうございました』という言葉が出たんです」

周囲は皆、「あの藤本を破った廣瀬なら……」という期待を寄せている。だが、廣瀬自身はあくまでも「一戦一戦、戦っていくだけ」という考えだ。世界の怖さを知っているからこそ、浮き足立つことなく、冷静に見つめているのだ。それでも彼の心の奥底には、熱いものがあるに違いない。それは本番まで自分の中にだけ閉まっておくつもりなのであろう。今はただ、黙々とトレーニングに励むのみ。すべてはロンドンで力を発揮するために――。

(文・斎藤寿子、写真・竹見脩吾)

協力 日本視覚障害者柔道連盟