二宮清純の視点
二宮清純が探る新たなるスポーツの地平線
2010.06.03
第1回 NTCは誰のものか?
~国民誰にもスポーツする権利がある~(1/4)
今年、カナダ・バンクーバーで開催されたオリンピックとパラリンピック。オリンピックでは5個、パラリンピックでは史上最多の11個のメダルを獲得した。オリンピックとパラリンピックは毎回、同じ会場で行われる。両大会とも選手は国の代表として磨かれた技を披露し、勝負に挑む。しかし、オリンピック強化選手は文部科学省が管轄するJOC(日本オリンピック委員会)に、パラリンピックは厚生労働省が管轄するJPC(日本パラリンピック委員会)にそれぞれ所属している。自らが極めた技を駆使し、真剣に勝負に挑むアスリートたち。そこに障害の有無は全く関係ないはずなのだが、現実は違っている。
そこで今回は2005年より日本体育協会会長を務めるなど、スポーツ界に大きな力を持っているといわれる森喜朗元首相に二宮清純が独占インタビュー。「国民にはすべてスポーツをする権利がある」と主張する森氏に日本スポーツ界の問題とその解決への道筋について訊いた。
二宮: 日本では、「障害者スポーツ」というと、リハビリの一環というような考えが根深く残っています。そもそもスポーツは健常者だけのものではありません。ところが、どうも日本人は障害者スポーツをスポーツとは見ず、また選手をアスリートとして見ていない傾向があります。それは日本代表としてパラリンピックに出場する選手に対しても同じ。例えば、ナショナルトレーニングセンター(NTC)は、オリンピック強化選手は使えても、パラリンピック強化選手はなかなか使用許可がおりません。
森: そのことは私も大事な問題だと思っています。まずNTCは何のためにつくられたものなのか、ということをもう一度考えてみるべきです。選手が技術力を磨くために、充実した練習が存分にできるようにということで、国が国民の税金を使ってつくったわけです。ということは、そもそもNTCは国民のものなんですよ。
ところが、NTCの管理・運営を日本オリンピック委員会(JOC)が行っているために、オリンピック強化選手のためだけにつくられた、と考えられてしまっている。もちろん、基本的にはオリンピック強化選手のために、という考えは間違いではありません。しかし、と同時に同じ日本代表として戦っているパラリンピックの選手だって使っていいはずです。もっと言えば、24時間、365日、埋まっているわけではないでしょうから、空いている時には一般の人たちも使用できるようにするのは当然だと思いますよ。
障害者アスリートも同じ仲間
二宮: 森さんのお考えではNTCは一部のオリンピック候補選手のものだけじゃないと。国民みんなの財産だと。
森: そうです。予算をくんだ当初からそういう考えでしたよ。
二宮: ところが、パラリンピックの代表選手を取材すると、「使いたくても使わせてもらえない」というのが実態のようです。
森: 私もその話を聞いて「パラリンピックの選手には使わせてもらえない、という苦情が出ていると聞いたんだけど、どういうことだ?」とJOCに質したんですよ。そしたら「いや、改善しました」と。「改善した」と言っても、使えるようにしたのか、そうでないのか......。「そういう問題はきちんとしておかないと社会問題になるよ」と注意したんだけどね。
二宮: そうなると、やはりJOCとJPCを統合させる方向に向かわせるのが筋でしょうね。将来的にはこのままスポーツをタテ割り行政の犠牲者にしておくわけにはいかない。
森: 確かにそれはそうだが、果たしてJPCの上に立っている者が、すんなりとうんと言うかな......。実は先日、日本ラグビー協会の理事会で議題にあがったのが聴覚障害者(デフ)ラグビーへの支援についてだった。来年8月にフィジーで「パシフィックデフラグビー大会」という国際大会が開催されるので、「日本代表」という名称の使用許可とユニホームの提供をしてほしいと。理事会では、できるだけそうした申し入れには支援するよう決定しました。ラグビーの仲間が増えることは歓迎すべきことですからね。他に車椅子の人たちがやるウィルチェアーラグビーもあるんですよ。聴覚障害のある人も車椅子の人も、みんなラグビーが好きで、障害があってもそれを乗り越えてやろうとしているんだから、それは大いにバックアップすべきだと思うんです。
二宮: デフラグビーやウィルチェアーラグビーも日本ラグビー協会の傘下にしてはいかがでしょうか?
森: もちろん、そういう考えはありますよ。将来はラグビー協会の中に入れるセクションをつくっていく必要があると思っています。
(第2回につづく)
<森喜朗(もり・よしろう)プロフィール>
1937年7月14日、石川県生まれ。県立金沢二水高校ではラグビー部に所属。3年時には主将としてチームを牽引する。進学先の早稲田大学でもラグビー部に入部。体調を崩して退部した後は雄弁会に所属した。4年時には自民党学生部に入党し、青年部全国中央常任委員に就任した。卒業後、産経新聞社に入社。1963年、国会議員の秘書となり、政治の道へ。69年、第32回衆議院選挙に無所属で初出馬すると、トップで当選する。83年、第2次中曽根内閣で文部(現文部科学)大臣として初入閣。その後も通商産業(現経済産業)大臣、建設(現国土交通)大臣、自民党幹事長を歴任し、2001年には第85代内閣総理大臣に就任した。現在、日本体育協会会長、日本ラグビーフットボール協会会長、日本トランポリン協会会長、日本オリンピック委員会理事などを務め、日本スポーツ界の発展に寄与している。
(構成・斎藤寿子)